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ブログのこと 

ついに一ヶ月以上更新をサボるまでに成長しました

成長?







ツイッターでちょこちょこ呟いていて

それで済ませている








というのは実は全く違うんだけど。



そもそも、僕の場合のツイッターの位置付けは

いまは『自分自身の確認部屋』であって

その部屋の中で戯言を言ったり爪を切ったり

あるいは窓のそばで光を浴びたりといった

(そんなような)

わりと内向的な位置付けになっている













公園やプールに行って

「おー!むせ返るほどの樹皮のニオイだ」とか

「プール着いた。さて泳ぐべ」なんて

実際に口に出してたらいろいろ怪訝な目で見られるんだけどね

だから見ての通り『人に聞かせる』ようなことは呟いてない














他の方のツイート(呟き)が選択的に読めるわけだけど

最近はTLに以前このブログで書いてきたような

スピリチュアル的ワードがチラホラと見える

もちろん「名言bot」とは別で実在の方のツイート











ぼくはその『人様のつぶやき』を

ソファーに横になって眺めている感じでいる

それも自分自身の確認に含まれているから






いわば

自分の部屋のソファーで横になってる

右を下に頬杖をついてボケーっとしていると


誰かが部屋に入ってきて本棚にある本を開いて

ぼくにそのページを見せてくれている

という感覚とでも言おうか



こんなふうに書くと

なんでも判ってるのか?コラ!!

になってしまうけど見ての通り決してそうではなくて

ひとつひとつが自分の中に内在していたものだと

思い出す感覚というのが正直なところ

だってスピリチュアルってそうなんだもん







実はぼくは以前「スピリチュアル」という言葉を敬遠していた

それだけではなく、宗教という名を冠した統一思想も

数年前まで「キモイ」「うさんくさい」とさえ思っていた

いままでも『スピリチュアル』という言葉を使ったことはほとんど無い

広義の上では今でも「しっくり」きていないのだけれど

まあ 通じやすいからいいか














ぼくの想うスピリチュアルという概念は

仏教やらアセンションやらを平行して学んでみて

実はだいぶシンプルにまとまっていきている




例えをあげると無数な表現になるものだけれど

実際には1つか2つ程度の想念で表わせると思っている

(その「2つ」というところでいまは混迷している)

それは本当に絶え間ない失敗の

いまでも上書きされ続ける失敗の産物なんだけども














ただ時々、人様のツイートを見ていて

「あーなんか窮屈そうだなー」と思う時がある

それに対しては、公式RTで引用語句を使ったりはする

まあ始めの頃このブログでやってたようなことと同じか



自分の言葉を使わないのは

たぶん『欲』から開放されたからだと思う
















1ヶ月以上ブログを更新しなくなってみて

このブログについてちょっと考えてみた








●ひとつは『その時の記録』

これはほぼリアルタイムの情熱だったり抑揚だったりで

いま思い返しても 「よくやってたな」とか「気持ち悪いな」と思う

でも本当に書いておいて良かったと思う

情熱は無限にあると思い出す

それにしても文章が下手だなぁ










●ひとつは『交流』

気になったりした他所(よそ)様の記事にコメントを書く

そして、ありがたいことにコメントをいただいたりもする

他所様のコメント欄で知った方からコメントをいただいたりもする

その人が実はぼくの祖父と遠回りに繋がったりした

最近更新してないのに知らない人からコメントがついたりする

うん。下品なやつね

他のコメントくださる方に悪いので消すことにしているけど










●ひとつは『出会い』

ブログ自体が初めてで

いまのところ別でも書いてないので

一般的にブログとはそういうものなのかはわからないけど

このブログで実に多くの方と知り合えた

それも実際に行って会ってというお知り合い

いまでは疎遠になってしまった人も多いけど

振り返ってみればなんかすげーのよね










●ひとつは『自己顕示』

このブログはスピリチュアル的なことを実践しはじめて

だいたい2年目くらいに書き始めた

ちょうど影響が出始めた頃で

いろんなことの「エンジンが掛かり始めた」タイミング

良いと感じた知識を自分尺度でどんどん書いていた

「ぼくはこんなことも知ってるやっている」とアピール

どこかで『すごいと思われたい』という自分本位な発想は

スピリチュアリティを少し学ぶとついついやってしまうことで

「ぼくはみんなとは違うんだよ先に進んでるんだよ」的なアレ

実は真髄とは真逆な発想なのに

いま考えるとやたら青臭いよ













そして、冒頭に戻るんだけど

記事を更新しないのは

面倒くさいのが25%

書いてる途中で眠くなるのが25%

書くべきことはあらかた書いたと思ってるのが25%

そして残りの25%がこれから要になってくる想念の部分













あたりまえだけど想念は活字ではない

厳密に言うなら想念は「活字だけじゃない」











ブログきっかけのお知り合いに

音楽は「自分の耳で確かめる」という人がいる

つまり、論評や売り上げや話題やCDの音ではなく

実際にその場に行って自分の耳で聴くという
















活字は同時に同じ内容を離れた場所からでも読める

それが活字の役割だと言える






「憎い」という言葉があるけれど

「あいつが憎い」と書かれているのと

「憎いねー」と書かれているのとでは

なんとなく違う





全く同じで「ありがとう」だってそうだ
















どういった心(マインド)で居るのかが

この先とても大切だと思う

いい人に思われたい時点で思ってる「いい人」ではないのだ

言葉で「世界平和」を謳うだけではその半分にも満たないのだ

言霊は想念にも影響するはずだから










それが

この先とても大切だと思う



『とても大切』  ←活字にすると酷く安っぽいね

それが残りの25%です









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迷ったら、立ち止まる さまよう 

とどまっていると見えて来ない 進んでいくと見えてくる 交差点 信号があったり なかったり 標識があったり なかったり 江戸切り子みたく複雑な交差点だったり 見通しがよかったり 悪かったり 渡る時には気をつけて 見通しが悪い時は よーく確認して 信号は守らないと危ないね 何度となく事故をしたり 時に 傷をつけたり 傷をつけられたり 標識の無い交差点は 時に迷い 曲がった先の景色で 道を違えたと気付くこともある 間違いとわかってて 曲がることもある つかの間のかなしみ 交差点ではよく確かめて やがて輝く未来へと 新たなる道をゆく あまりスピードは出さないで。

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8/6 

過去記事 小学校4年の夏 広島平和記念公園に行った はっきり言って小4のガキに本当の意味なんてわからなかった それでも いまでもよく憶えている 平和は心の中から 僕らは 平和を平和を と 平和を謳っているけれど 今日は捌かれた動物を焼いて食べ 有名人のスキャンダルに浮かれ、あるいは憤り 自国の繁栄のために他国を侵略し 自分側・相手側を区別し 我が身内を優先し 権のある者の言葉に耳を傾け 見下す者の言葉を嘲笑う 我が不幸を訴え同情を待ち 他人の不幸は見ない振り 今日も原発のある地方では たくさんの不安と差別と涙が渦巻く そして僕たちは広い部屋でクーラーを効かせて 外にある室外機は本来の環境以上に温度を上げる 発電は現在も二酸化炭素を作り 温暖化を促進する いつも濃い味でラーメンを食べていたら たまに行く無化調のラーメンが物足りなくなる いつも香水をつけていると だんだん嗅覚が馴れてきて より濃い香りを求める 僕らは 歩くより速い自転車を手に入れ 自転車より速いオートバイを手に入れる イヤホンからの音は次第に大きくされていく 僕らは 欲深い そして 欲 の裏に必ず来る 『清算』を その時まで忘れる 我欲は何かしらの形で 僕らに合図をくれる 事故であったり病気であったり 非日常であったり 8月6日 日本では平和記念式典が開かれる 平和というのは きっと 原爆を責めることでもなく 原爆投下国を責めることでもなく 自国のあるいは被爆者の悲惨さを訴えることでもなく 後世に語り続けるだけでなく 未来でも過去でもなく 現在 僕たちが 誰かが哀しむことはやめようよ と 行動することだと思う 『侵略』という ネガティブな意識から始まった事象は ネガティブに見える現象を返す それでもそこから 「学べるよ」って合図が出てる 水を浴びて扇風機にあたると涼しい それにしても暑い

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今日も明日も明後日も 

1941年12月08日午前07時49分 354機の戦闘機から爆撃を受けた真珠湾は ものの数分で陥落し 3500人の命を奪った 1945年08月06日午前08時15分 エノラゲイから投下されたリトルボーイは 一瞬にして 建物を破壊し 人を焼いた 以後何十年にも渡って 放射線障害で人を苦しめ続けた ---------------------- 奪う という意識から始まった 征する という意識から始まった そういった排他的意識は 少なからず自らに返ってきた ---------------------- 僕は歴史には疎いけれど 歴史的、世界的に見ても悲惨な戦争だったと思う ---------------------- 唯一の被爆国は いま新しく基地を作ろうとし 『核の平和利用』の名のもとに原子力発電所を再稼動する これは批判でも否定でも歴史でもなく 現在起きていること ---------------------- 僕の親戚には原子力発電所で働いている人は居ない 広島、長崎、あるいは遠洋漁業で被爆した人も居ない 近所にも友人にも知人にも原発で働いている人は居ない 現住所から最寄りの原発まで直線で146キロメートルもある ---------------------- 5年ほど前に平井憲夫さんという人の文を読んだ 以来、安全な原発は世界中の何処にも無いと思っている そこに書いてあることが事実か真実かはわからない ただ、メディアで見聞きすることと明らかに違う ---------------------- 何を信じるとか何が正しいとか それは個々それぞれが判断すればいい ただ 排他的な部分と協調的な部分とがあって そのどちらと手をつなぐのかだけ ---------------------- 環境問題とかを語る時に 『未来のために』 『子供たちのために』 と 未来と子供たち を理由にするけれど もっとシンプルに考えると やったらあかんやろな という漠然とした『良識』みたいなものが 理由の前に浮かんでくると思う 理由なんて無い 意識のずっと高いところにある自分自身 あとは欲に負けるかどうかだけ ---------------------- 排他的意識と手をつなぐことは やがて自分を排除させることになる 排他的意識は少なからず返ってくる そういうことも本当は気付いているんでしょ? ---------------------- 2010年05月06日午前10時36分 福井県敦賀市の高速増殖炉型原発が再稼動した 本当に安全なら事故なんて起きない ---------------------- 平井憲夫さんのページ http://genpatsu_shinsai.at.infoseek.co.jp/hirai/ 原子力安全技術センターのページ http://www.nustec.or.jp/ ---------------------- 僕の意見がどうこうというより・・・ いや、実際にそれはどうでもいい みなさんのココロがどう反応するかが大事なのだ ---------------------- 挙げるのを躊躇していた記事 政治にかかわる事は基本的に書かないことにしてたから それでも今日、必要を感じたのでUPしました。

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ゴウンゴウン 

こんにちは ゴウンゴウン すっかり春めいておりますが 隣の家が改築解体工事中でありまして 朝から重機の音がゴウンゴウンとなっています 定期的に家が揺れます そんなわけで 水曜日は大阪に行きまして 遠距離中のドラマー彼女のライブを観ました 本人曰くすごく久しぶりのライブなので 僕がハラハラ緊張しました そしてちょっと羨ましくなりました あっちに立ちたい。かっこえーやん 考えてみると 先週の財布紛失事件以来なんだかバタバタして 落ち着かない日々が続いております いや、バタバタさせていたのかもしれない きっと自分で選んでいるんだ ゴウンゴウン 定期的に『何もしない』という時間が必要なのだと思う 少なくとも僕はそうだ 通勤中わりと見かける人 電車の中でイヤホンを耳に それとは別に携帯ゲーム機 そして定期的に携帯をいじる これは脳みそ大変だなあと思う それともよほど不安なのかしら ゴウンゴウン いろんな刺激が欲望を掻き立てる現在ですが 本格的に瞑想やら座禅やらとまでいかなくても 自分と『二人きり』になる そんな時間を持つことはなんだか豊かな感じがする ----------------------- 面白いもので 重機の音が止まると一気に静かになる あ あたりまえか さて プールでも行ってこよう 海月(クラゲ)のようにたゆたってこよう
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